星にときめく 7 (前半部了)
公開 2026/04/07 15:49
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停留所に着く前からダムの一角が見えていた。意想外に小型のもので森の中にひっそり蹲(うずくま)るような佇(たたず)まい、豪快な放流を見せられなかったら悪いなと即座に思った。エアコンの効いていたバスから降りると忽ちムアーッと暑気に襲われ取り込まれた。今日も真夏日なんだと確認するまでもないことに気が行った。
「この丘の上に登るとダム湖が見えるんでしょうね。でも、ちょっと早いけどお昼にしませんか。ちょうどあそこに四阿(あずまや)があるし、どうせ誰もいないダムだろうから慌てなくてもゆっくり見られるでしょう」
「あら、育ちがいいのね。直ぐに敬語に戻る。ま、いいわ。……そうしようぜ。昼飯(ひるめし)食ってからでもたっぷり時間はあるし、誰の目も無(ね)えから思いっきり羽を伸ばせるぜ。本当の俺を見て貰おうかな」
 絶句……。最後の文句は意味深だ、声をフェイドアウトさせもした。それにしても態(わざ)と男言葉を遣おうと齷齪(あくせく)してくれるのには参った、笑ってしまった。可愛い気もした。それじゃあ、僕は女性言葉を遣えばいいのかしらと思ったけれどとんだ茶番になる。滝井さんは僕が敬語を直ぐに遣ってしまうのに呆れているだけなのだから。
「さあ、そうと決まればお食事、お食事」と理子が言う。
男言葉はさすがにもう止めた、大人である。妙なところで感心する。
四阿(あずまや)の木製の机も使用頻度が低い所為だろう、自然の埃(ほこり)が積もっている。誠がフーッとばかりに息を吹き掛けるのを見て理子が拍手して微笑(ほほえ)んだ。少し野性味を感じてくれたってことか。用意してきた濡れタオルでさっさと拭き始める理子の様子を見てそんなに神経質でなさそうなのを誠は好ましく思った。
サンドイッチはハムや卵、野菜サラダにツナサラダをそれぞれ四等分に上手に切ってあって食べ易く、どれも旨くて何の遠慮も無く四種類二個ずつをあっという間に腹に収めた。それを嬉しそうに眺める理子に気が付いてさすがに照れた。都合4枚、食パンを食べたことになる。さすがにこれは食い意地が張っていると評価を下げたろうか、とこいつは考え過ぎで、理子はもっとざっくばらんに付き合って欲しいと望んでいるのだ。
「あんまり美味しくて食べ過ぎまし…おっと、食べ過ぎた。それに今さらなんだけど飲料も滝井さんに持たせていたとは僕の至らなさ、穴があったら入りたい気分…だ? ウン、何か妙だな。気分だよ、か」
「いいのよ。自然に出てしまう敬語なら。苦し紛れの敬語崩れの表現なら、聞いてる方もずっこけるから。でも、飲料が重たかった分は後でたっぷり埋め合せをしてくださいな」
また、フェイドアウトした。どうも女性との会話には緊張させられる。不安でしんどい。それでも椅子に座れたお陰で気持ちがかなり解(ほぐ)れてきた。その余裕で観察させて貰うとヘアバンドが焦げ茶なのはスカートに合わせてるんだろうなと思われ、改めて見ると靴も光沢のある茶系のものだ。ショートヘアにヘアバンドを差しているだけで理子の可憐さが知れる気がした。健康色の頬から目を移しまつ毛の長い大きな目をチラ見する。一歳差とは言え年上の女性とデートしている自分が信じられなかった。下手に部活なんかに入っていたら土日を自由に使えなかったろうなとふと思った。
さて、このダムは電気自動車で運んでくれるような観光客相手の巨大ダムではない。雑草に覆われ辛くも見える横道から登るよりないのだ。再びの汗びっしょり、堪えて登ってゆく。手を繋いでなんてことを理子も言わない。またも理子の背中を見つめくっ付いて登る山行になった。けれどもあと数十分で覗けるダム底から立ち上る涼しさはさぞ心地よいだろうと推測し、それを理子の前で何と評すべきか、巧い文言が浮かばない。暑い所為だ、きっと。が、自分が小学生の時に発出させた情動を女子大生に望めるものだろうか。一歩登る度に暑気が生気を奪い、疲労が躰に染み入る感覚がある。緑が鬱蒼としている分の涼しさは感じるのだが無頓着に流れる汗に取り込まれてしまう。それでも、途中で「手を引いてあげようか」と理子に声を掛けられた時は、自分じゃ見えぬ自身の情けない姿を想像し、一瞬とは言え気を許したのを反省した。これだけ濡れても着替えなど無い。結局、引っ張ってくれた手も引っ張って貰った手も汗でぐっしょりだった。
「まあだ?」
「もう少し」
「まだなのぉ?」
「そうで、いや、そうだね、もうちょっとだと思うんだけど」
「まだまだ?」
 理子が引く手を止めた。固より誠が求めていたわけじゃないので何とも思わない。ところが理子がこう言った。
「誠くん、悪いけど背中を押してくれる?」
「ええっ、……」汗を掻いてるだけに考え込む、しかし、嫌とは言えまい。
「はい」と言って躊躇わずにグイっと押した。ブラジャーの在処が漠然と分かるのでその下側に狙いをつけた。
 押された理子も考え込んでいる。ええっ、何をと誠は身構える。
「押される角度が地面と斜度を作っている……平行でなきゃ駄目じゃない。誠くん、今だけ許可する! お尻を持ち上げるように押して頂戴」
「……お尻を?……」
どんな表情か見えない。そんなぁ……相手はスカートじゃないかぁ。
「……滝井さん、僕と登る順序を変えませんかぁ? 引っ張ってあげるよ」
「ダメ、それじゃ楽できないでしょ」
「はい!」と言って下から両手を突き上げた。
「よろしい。掴むんじゃなくって押すのよ」
 何歩か押すうちに要領が掴めたが、誠の汗は尋常でなくなった。
「まだかなあ」と理子はいい気なものだ。
「もうひと踏ん張り」とこちらは奴隷である。行く手の空など拝めぬ、誠は理子の背中を睨み続ける。
「まあだ?」
「僕だって初めてなんで、いや、なんだよ。……」
「ま、それはないでしょ、今さら。だんだん面倒くさくなってきた」
「そりゃあ当然です。…ウン? 当然だよ、五分ごとに聞かれるんだから」
「怒った? 誠くんってやっぱり可愛い。だけど相変わらず敬語ね。『聞かれる』は尊敬語で言ったのよね。受け身じゃないよね」
 誠も面倒になって返事をしない。緑陰の土壌の道はまだまだ続き、そろそろ見える筈の空を依然と隠し続けた。
実はさほど気温は高くはない、湿度が高いのだ。いや、自分たちの体が燃えているのか。二人ともくたくた、だくだくになって頂上を求めた。
すると突然、視界が開けた。ここは観光地から外れている事実を改めて知らされる。
一つ目の理由、いっぱいに伸びをしてもダム底を覗ける場所が殆ど無い、可能なのは中央の窪んだ箇所だけだ。その両側から奔流が落ちるのを見下ろせる筈だ、轟き落ちる音が聞こえる。但し、覗ける窪みの幅の何と狭いこと。でも幸い貸し切りだから理子と頭をぶつけんばかりに肩を寄せ合って下を覗くと瞬時に共通のオノマトペを発した。「わあーっ!」男も女もない素の歓声だ。一瞬遅れて理性に繋がると理子は「凄い!」であり誠は「気持ちいいー!」だった。
「規模は小さくても迫力はありま…あるよね」大声で言った。
「正直、小学校の社会見学で見たダムの記憶は曖昧(あいまい)だけど、実際、覗き込んだら吸い込まれる迫力ですーッと思い出したわ。もっと刺激的に覗かせてくれる?」
と言うが早く誠の背中に跳び付いた。反射的に誠はよろける、がそこは踏ん張って負んぶしようと後ろに手を回す。理子が揺するように誠の背中を攀じ登る。胸が擦(こす)られた感じはブラジャーのトップの所為だろう。両手は確実に太腿を掴んだ。誠は無言だった、いや、声を上げる余裕など無かったのだ。誠の首の上から滝井さんの顔が覗く(どうも自分は意識し過ぎかな? 瞬時にいろんなことを考える、感じてしまう。これも経験不足故のことなんだろうな、と暫し考え込む)。
「お願い。ゆっくり俯(うつむ)いて行って。……キャーッ、素敵ィ―、落ちるーッ」
とはしゃいでは後頭部に伸し掛かる、その圧を跳ね除けようと誠は必死で背筋に力を入れた。
「落ちる―ッ」と叫ぶ。半分は歓喜だ。
「落としませんよ」と誠、無論会話は成立していない。
今しも放流の最大量なのか、左右二か所の穴からけたたましい音を立てて流れ落ち、飛沫を飛散させ周囲がシャワーカーテンになった。意想外の間近な迫力に理子がのけぞり、誠は首を決められた。「待った―!」と叫ばんばかり、それでも理子を落とさぬようにと両手でお尻を掴み直す。どういう加減かスカートの中での所作だ、偶然嵌った感じがあって正当防衛でも無意識に勃起した。無分別な息子に困惑する。
「ありがとっ。凄かったわ。重くなかった?」
と言いながらも首に纏わる腕を戻さない、
「滝井さん、く、苦しいです、いやっ、もとい、ぐるじい」とデクレシェンド。これは息が詰まったからである。数歩、後方へ倒れそうになって退いた。
「ごめんね。苦しいなら苦しいって言ってよ」
「言ってたよ、ずうっと。言ってたつもり、けど聞こえなかったのは轟音の所為、いや違う、僕の声が声とならなかった……」
「あら、そうなの。誠くん、許してね。でも、君のお陰で、吸い込まれてそのまま落ちて行きそうな貴重な体験ができた。とっても怖かった。『誠くん、放しちゃ嫌よ』って叫び声、聞こえてた?」
「いえ、ホントですか。『落ちる―』の連発にしか聞こえなかった。もう、僕はそれどころじゃない、滝井さんを落っことしたら大変だとばかりに必死だったから」
密着する彼女の体温と汗が服を通して感じられる。リズミカルな息遣いも真近にあった。滝井さんは誠の両の耳辺りから腕を回して首の前で組んでいた。
「もう一度頼める? もう一回だけ覗かせて。お願い」(そうか、それで負んぶの儘(まま)だったのか)
理子は何度も歓声を上げた。自分への感謝の意もあるのかなと思った。
「誠くん、重いでしょ」と誠の耳に声を放った。
 漸(ようや)く気が付いたかと、誠は正直に大きく頷(うなず)く。マッという弾ける声を上げた。
「誠くん、もう降ろしていいわ。充分、堪能したから。もう解放してあげる」
「そうか、僕は捕らわれの身だったんで、…だね」
「水流を見てたらほんとに涼しくなった。すっかり汗ばんでるのにね」
ちっとも誠の言葉を聞いちゃあいない。
「滝と同じ働きなんだって。『1/fのゆらぎ』という周波数は一番リラックス効果があると言われてるし、滝の音から風を連想して体感温度を下げるんだって言われてる」
まだ誠の背から降りていない理子が感心したように体を捻(ひね)って下から誠を覗き見た。バランスが崩れる。理子も無理な態勢だがこちらの方が耐え切れなくて、
「じゃあ、降りてください。もう下界へ降りましょ、理子さん」と言うと、
「あら、初めて名前で呼んでくれたね。でも、もう降りるの? 登ったばかりじゃない。それに二人っきりよ。もうちょっとここにいましょ。……勿体ないわ」
と言うが早いか、誠から飛び降りると直ぐに右の手を取った。
掌の汗が気にならないのだろうか。女の人は大胆だなぁと誠は感じる。自分は手を繋いでいるのを他人に見られるだけで恥ずかしい、ましてや思い切った行動を妄想しても実行に移すなど腹が決まらない。
ところがどこに行きようもない狭い場所だから、ぐるりと回ってそのまま、理子は降り口に向かった。「誠くん、降りるわよ」は駆け降り始めてから発せられた。下りの方が危ういというのに、二人は手を取り合った儘、雑草で生い茂る狭い道を跳び抜けるが如く下りる。辛い態勢なのは引っ張られるというより理子に付いてゆくのに精いっぱいの誠の方、秒単位で苛立ちが増す。もうこの苦行で滝井さんには十分尽くした、そんな思いで必死に堪えた。それにしてもやばい。登山の下りで調子に乗って走って行けば制動不能になり、最後は覚悟を決めて体を投げ打ってでも転がり落ちる、そして……その想像の一歩前のスピードでゴールが近づく。終いまで二人は無心に走り下り、止せばいいのに理子がスピードを急に落としたもんだから誠は庇(かば)おうにも叶わず寧(むし)ろ理子に負い被さるように雪崩れ転んだ。(ほら見たことか)言葉も発せず四転五転、繋いでいた手も虚しく離れ、二人はあられもない恰好で漸く停止した。救いだったのは土(ど)道(どう)を越えて草原で回転したこと、軽症で済んだが哀れなのは可愛いピクニック衣装の理子。誠が悪いわけではないが心から申し訳なく思えた。
理子がフーッとため息を吐いた。泣きそうな顔をしている。草やら泥やらで汚れるだけでなく至る所引き千切れているような有様を理子に見せてはなるまいと思った。咄嗟(とっさ)に走り寄って跪(ひざまず)いて力強く抱き寄せた。
「ごめん、滝井さん。泣いたって構わないよ。ここは僕らだけだから」
すると、理子も両手で誠に抱き着くと、本当に、泣いた、泣きじゃくった。
一〇分近くもそのままだったか……。
「わたしってバカね。誠くんが悪いんじゃないのに」
「いや、僕がこんな場所に連れて来たからだから」
ウウン、と首を振ったかと思うと理子が突然キスしてきた。吃驚した誠も悟らせぬよう夢中で唇をぶつけて行ったら歯の当たる音が響いた。さすがに驚いて誠が抱き寄せていた手を離し、「ゴメンッ」と。
「わたしは大丈夫、誠くんの方が、……血が出てるわ」
と言ってハンカチを誠の唇に当ててくれた。濡れているのが優しく感じた。
「わたしって本当にバカね。子どものように興奮して坂を駆け降りるなんてことを。痛くない?」
 こんな時、恋人同士であれば『僕は大丈夫。滝井さんは?』なんて答えるのだろうなと誠は思いながらズキンズキンとする唇なのか歯茎なのかの痛みに堪える。
理子の額から大粒の汗が流れ落ちている。自分も同じだ。一先ず、また四阿へ。立ち上がる時、「痛いッ」と理子が言ったのは膝小僧が出血していたから。咄嗟にズボンから取り出したハンカチで縛る。理子が黙って見ていた。少しく冷静だったら、ポケットから取り出すのが躊躇(ためら)われるほどびっしょりだった。ポケットの裏生地も一緒に飛び出した。立ち上がって肩を貸そうとした誠を理子が気丈な感じで制した。「ありがと、洗って返すね」小声なのが理子の生な声だと感じた。
木のテーブルは広いが、一つのベンチに並んで座った。汗が全身を伝い流れるのを意識で追い二人とも無言でいた。 
「べちゃべちゃね、汗が滝のよう」
そう言って滝井さんが笑い、手を伸ばして誠の額にタッチしようとした。誠が自然にそれを躱すと、
「ダメ、誠。よけたらダメでしょ」
「そ、そんなぁ……。だって、……」
「ワイパー一回分でいいから。汗も男らしいわ」
「じゃあ、僕も」
身もだえして理子は誠の手を払った。
「男がするとセクハラよ。罰にはやっぱり、ソフトクリームね」
突然の理解しにくい文句に誠は笑えず、
「いくら望んでもそれは無理。こんなところじゃ商売しても儲からないから」
「誠くんなら何食べたい? もし、売店があったとしたら」
「えッ、それは、店を覗かないと分からない」
「もう! 頭が固いんだから。食べたいものを想像すればいいのよ」
「あっ、そうなん、もとい、そうなの? だったら、……牛乳かな」
滝井さんが噴き出した。ジャンパースカートのポケットから別のハンカチを取り出した。
「もうハンカチじゃ治まらないわね」
そう言って誠の額を拭いてくれる。このハンカチも少し濡れている。
「あ、もう、いいです。……僕も持ってるから」
「膝のハンカチのこと?」
「あっ」と言って言葉に詰まる。
 理子が顔をやや強めに拭いてくれるのに任せた。左耳の揉み上げまで拭こうとした時、理子がバランスを崩して誠の腿へ倒れた。思わず引き起こそうとした誠に理子がひどく近いところから見上げた、
「ちょっと待って。少しの間、誠君の膝で休ませて。先日のお返しに」
理子が両足を揃えてベンチに上げ膝枕の態勢になる。誠はそれとなく中央を外すように位置をずらす。
「これで顔の汗を拭って、これもお返しに」
手に取ったハンカチは既に誠の汗で濡れている。なんだか凄く淫らな感じがした。試しに絞ってみる。ぽとぽとと汗が滴り落ちた。
「外にハンカチ、無いんですか」
「さすがに二枚しか持って来なかったわ」
「だったら……」
「気にしないで。可愛い誠君の汗だもの、歓迎よ」
「だって……」
「つべこべ言わないの」
と言うが早いか、左手を伸ばして誠の首根っこに回し引き寄せた。顔の下半分同士が密着、これってキス? 理子の唇は確(しか)と誠のそれを離さない、左手はそのままの姿勢を維持させるべく強かった。誠はされるままにした。感覚はやたら長かったけれど許してくれた時、すばやく深呼吸をして、
「じゃあ、拭くよ」
「お願い、そうして」
 呼吸が整うまで理子は何度も胸を上下させた。汗がブラジャーを透けて見えさせた。細い喉がつられて上下する。いや、今は前後する。誠まで喉を鳴らして唾を飲み込み、気付かれなかったか焦った。誠は拭うのでなくぽんぽんと汗を沁み込ませていった。
「こんなこと、初めて。誠くん、サンキュウ―」
徐(おもむろ)に起き上がりながら笑みを湛えて誠を見た。
「貸して、ハンカチ」
「いや…滝井さんのです」
「分かってるわ、細かいこと言わないの」
左手で髪を掻き揚げ額を拭う。次いで後ろの髪を束ねて片側に移し器用に項(うなじ)辺りを拭っ
た。誠はその柔らかな仕草(しぐさ)に見惚れた。
「化粧もすっかり剥げちゃった。さすがにすっぴんは恥ずかしいわ」
何と応答すべきか、誠は息を飲む。風呂上がりのような熱っぽい肌はむしろ魅力的だった。ほっそりした小顔が一層細長く見えた。
「これ、使う? って言われたらどうする?」
「ええっ?」
怯んだ。一体、何度驚かされるのか。ハンカチは丁寧に畳まれた。
「嘘よ。びっしょりでもうお役御免よ。ごめんね、いやらしい冗談なんか言って……」
見つめられて誠は心を覗かれた気がした。
「気を遣って貰ってありがとうございます。汗なんか切りが無いから放置です」
包帯と化したハンカチ以外に替えなど無い。そもそも誠は普段から財布とケータイ以外は持たぬ主義で夏に汗は付き物と流し放題、偶に手の甲や腕で拭って終いとした。今日はデートだからと新品をズボンのポケットに忍ばせてきたのだが、使いっぱなしの握りっぱなし、挙句に彼女の膝小僧に縛られた。
 太陽は無限にこのダム辺りを集中的に照射していた気がする。汗を迸らせる場所とデートとはミスマッチだったろうが、理子は気遣いもあるだろうけれど、終始笑みを浮かべていた。
「あッ」と叫んだ誠の顔を理子の目が素早く向いた。
「ダムカードを貰うのを忘れた。ダムの端に小さな事務所があったでしょ。ダムごとにそれぞれ特徴を記したダムカードを作っていてお願いすれば貰えるんですよ。失敗しちゃった」
 どんな気持ちだったか、誠は饒舌に説明した。
滝井さんが無言のまま誠を覗き込むようにしたから、
「また、登る?」と言うと、
滝井さんが息を呑んだところへ、すかさず、
「冗談ですよ。……さっきの仕返し」
二人同時に噴き出した。
「でも、ダムカードはあったと思うよ。念の為に僕、ドアノブを回してみたでしょ」
「そういうことだったの。誰もいそうもない建物なのに、変だと思ったわ。それよりあそこの先に道路があったけど、そこから登ってくることもできたんじゃない?」
「いやあ、ダメでしょ。下に車道は見えなかったし、もしあっても『関係者以外立入禁止』となっているだろうな、多分」
「そうね、そういうもんだわね。大雨が降れば車で駆け付けるんだろうけど。でも、あそこに常駐はきついわね」
「そうだね、ソフトクリームを売ってる店も無いみたいだし……」
「誠くん、ねちっこく言うわねぇ」と滝井さんが怒ったふりをする。
「もう帰りましょ。たっぷり満足したわ」
「待って下さい。取って置きの場所がまだあるんです。実はこっちが本命ですから」
そう言いながら誠が周囲をぐるりと眺める。そして見当をつけて歩き出すのを理子も追いかけた。
ドアはあった。けれど、『関係者以外立ち入り禁止』とラベルが貼られていた。
「ごめん、一体何度目の『ごめん』だろ。この扉の向こうには坑道があって、そこがとっても涼しいんです。滝井さんをそこにこそ案内したかったのに。残念無念です」
「そうなの。そんなに残念がらないで。ダムでも四阿でもほんとに満足できたんだから」
「……ちょっと表現できない涼しさなんだよね。残念で堪りません」
「いいわ、誠くん。もう帰ろう、寮に帰ってシャワーを浴びたいわ」
 うなだれる誠の肩を叩いて慰めてくれる。
「ダムの底の感無量な涼しさを味わわせてあげたかったのに……」
「分かった、分かった。……私にいい考えがあるわ。ひとまず町中へ戻ってソフトクリームを食べましょ。駅近くのおいしいお店に連れてってあげる」
 誠が無遠慮に理子の体を眺めるのに気づいてハッとした。
「そうか、こんな格好で町中になんか出て行かれないわよね」
「寮に帰るのも見られると拙いんじゃないかな。僕のうちに連れて行くのも塩梅(あんばい)悪いし……、滝井さんの友達でシャワーを使わせてくれる人いるんじゃない、序(つい)でに服も貸して貰うといいよ」
「でも、男物は無いわよ、多分」
「滝井さん! しっかりしてくださいよ、僕は自分の家に帰りますから」
理子はきまり悪そうにもじもじして、
「何を言ってるのかしらね、わたし。きっと無意識に誠くんと離れたくないと思ったんだわ。……誠くん、夜にもう一度デートしない? 約束のソフト、奢(おご)って貰ってないし……」
「ええっ?」の後が続けられなかった。どうしよう、どうしようと自分の心に詰め寄る。これ以上付き合うと止(と)め処(ど)なくなりそうな気がした。ぐっしょりの汗が冷たくなる。
「先ずはタクシーを呼んで、僕を途中で降ろしてください。降りるまでに答えを考えますから。……滝井さんは友人に連絡をして」
「は、はい」と素直な理子を可愛いと思えた。

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馬齢重ねて……若人等に紛れて文字に遊び親しむ……未だにそれが楽しくて……貴ブログにも手を引いて貰いました。

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