星にときめく 6-②
公開 2026/04/04 00:50
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6 -②
大学生になって初めて、所謂「デート」に挑んだ男の胸中が想像できようか。選んだ相手は理想とは異なって当然のこと(その頃は女優の内藤洋子が理想像だった)、向こうが自分を離してくれなくてと言い訳する無責任な狡さも否めなかった。
誠の大学には程近い距離に男子寮、女子寮があって、年に一度、すなわち旧暦の八月望の日、男子寮生が女子寮にストームを掛けても良いとする現代版「夜這い」に匹敵する野卑な恒例行事があった。自宅生の誠が二年の頃、学科内で親しくなった寮生の金子達(たつる)に引き摺られてしょっちゅう寮に出入りしていた。それが縁で同学科の先輩たちにも誘われて飲み会だけでなく麻雀や撞球など遊びも共にしていた誼(よしみ)からストームにも加わって良いとの寮長の許可を貰うことができたのだ(内実は金子が誠を男にせんと目論(もくろ)んで引き摺り込んだと後で知った)。
互いの寮の半数は参加する規模のお祭りで、男子寮生は四名ずつ組になって午後七時、食堂で缶ビール一本を引っ掛けるや否や女子寮へと喚声上げての猛ダッシュ。二人部屋の女の子もめいめい部屋を移動して四人で待っているのが基本ルール、開錠している部屋にはノブに赤いハンカチが結ばれているというゾクッとするオールド・ファッションだ。ベランダの手摺にもハンカチが括られているのは二階まではそこから忍び込む者等もいるからだった(昔は四階建ての寮のこと、最上階まで攀(よ)じ登る蛮カラもいたのだが数年前に三階から転落した者がいて制限が掛かった)。四対四なのも昔は違ったという話で飽くまで紳士淑女の異性交遊、健全な趣旨に沿っての自主的制限が一応設けられたけれど、本来は二人部屋に男女八名は嫌でも体の接触が避けられない方を取ったに過ぎず、だからその絶対ルールに文句を言う輩はいなかった。
いかな下戸の誠でも一缶くらいならと嘯(うそぶ)き女子寮までの全力疾走、この一〇分がきつかった。三階まで駆け上がった時にはもうヘロヘロ状態で、開けられたドアから先輩の背に引っ付いてふらふら入室、きょろきょろ部屋を眺めて男子寮とのあまりに異なる綺麗さを確認したまでの記憶でパッツン。それ以降は睡魔に襲われどつぼに嵌ったまま、強引に肩を揺すられ挙句の果てはビンタを食らわされてはさすがに意識は復活したものの、周囲の慌ただしい混乱の理由も分からず、先輩の「清州っ! 帰るぞ」の言葉に驚きかつ震えた。
「よく寝られたもんだ。彼女は滝井さん。お前をずうっと膝枕してくれてたんだぞ。明日にでもたっぷりお礼をするんだな」と怪しく叱責(しっせき)だか助言だかをされた。
そうは言われても膝枕の感触など残ってはいず、まして見も知らぬ女性の膝を二時間も占拠していたなど想像するもあまりある羞恥、手荒に引っ張り出されるのに懸命に足取り合わせて意味不明瞭な言葉を口真似するばかりだった。せめてその女性を我が目に焼き付けるべく振り返っても四名の彩り豊かな普段着たちが上下左右ばらばらに手を振っていて、「その名は滝井さん」が見分けられる筈もなかった。金子などホントに一緒にいたのだか、全く記憶が無いし、誠の相談にも、どこ吹く風の生返事でちっとも乗ってくれなかった。
ストームで生まれるカップルもままいるというが、総じてプラス一、二回のデートで終わるのが関の山とか。妙な肉体接触を縁と持ち上げられ、翌日誠は勇気を出して女子寮を訪ねた。
三階の住人の滝井理子(りこ)さんは三年生(三三の符合に他愛無く分かり易いと思った)、持参のケーキ(ショートケーキ二個、同室の子の分はない。いたら涙を呑んであげるさと吝嗇(りんしょく)家は考えていた)を渡すのと交換に部屋内に誘われた。相手が年上なら敬語を使わねばならず、並行して動作もぎこちなくなればピンクのベッドカバーの端に遠慮気味に座ろうとして、赤いカーペットの滑らかさ尻を滑らせ床に落っこちた。慌てた所為で起きようとしてまたも尻もち、失笑を買った誠が相手の心理を読めたわけも無い。同室の子は一年生で一講目から真面目に授業に行ったという。理子はケーキに紅茶を取り合わせたトレイを不安定なベッドに巧みに置いた。自身は机とセットの椅子に腰かけ「お持たせですけど、どうぞ」と言った時、初めて真正面から「滝井理子さん」を拝み見た。長い顔だった。肩までの髪を素直に流しているのは好みだったが、愛嬌あるクリクリっとした目が長い顔とバランスが悪く思えた。肌が黒いのはテニス部で連日ラケットを握っている所為とかで、「何度クリームを塗ってもどこかしら肌が剥(む)けてくるのよねぇ」と笑い飛ばすあたり、全然気にしていない様子。背丈は誠くらいあって一六七センチ、痩せぎす・筋肉質の体形も内藤洋子にゃ程遠い。
「夜八時までは男性を部屋に入れてもいいルールなの、知ってた?」
「いえッ、……そうなんですね」
「でも、朝は何時からとは決まってないのよ、知ってた? 知るわけないわよね」
とまた大口で笑う。
「朝四時ってどう? 暗いでしょ、ねッ!」
「はあ?」
理子が左右に首を振って、
「もう、いいわ」と打ち切った。
ケーキ、紅茶をベッドに零すまいと緊張した為か、自己紹介をした程度で、再度、前夜の失礼を詫びて去ろうとした誠に、
「清州くん、これで終わり? 一回くらいデートしてくれないの?」
こう言われてどれくらいの男が断れるだろう。後追いのタイミングで声を掛けて来た理子に、これは好かれちまったか、と意外にもふてぶてしい己の心を覗(のぞ)けたのは、それ迄の間に滝井先輩に初心(うぶ)な面があるのを見抜けたからであって、自身の観察力に感心しながらも体の震えは一向に抑えようが無かったのも事実である。反芻しているうちに理子が返答を待っているのを忘れていた。
「ね、しようよ」
「えッ、しようって?」
「デートよ」
「あっ、そうなんですね」(と、ふてぶてしいも呆れるほどで)
ここは女性に恥を掻かせてはならぬ、踏ん張らねば男じゃないとばかりに勇んで、
「じゃあ、今度の土曜でいいですか。……十時に大学図書館の三一〇番の棚辺りで会いまし
ょう」
と立て板に水の返答に理子が面食らったふうに瞳を吊り上げ、それでも「はい」としおら
しく答えたものだ。
不思議に通るメゾソプラノでの了解を得ると、初デートの咄嗟(とっさ)の誘いとしては上出来(じょうでき)だ
ったと自己評価し、「俺は漢(おとこ)ぞ」とにんまりした。が、何をするにもビクビクものだった
だけに夜になっても落ち着かず朝まで悶々と過ごした。
さて、三日後の土曜日。さすがに三一〇番台の書架の前にいたのは理子だけだった。ガーリー系というのか、ピンクの花柄のブラウスに焦げ茶のチェックのサスペンダースカート。肩紐と裾に白のフリルがあしらわれ、おまけに片腕には籐(とう)籠(かご)を提げていた。子供っぽいのが寧ろ誠をドギマギさせ、誠の足はその場で凍り付いた。自分なりの尺度での思い切ったオシャレに自信があるのだろうか、よく似合ってはいる。けれども大学図書館には超ミスマッチで、これは彼女の所為ではなく誠に非があった、申し訳なく思っているのを察してくれぬものだろうか。書架から覗き見る誠にまだ気付いていない。
どれほど前から来ていたのだろう、とドラマのように思った。一瞬、どういう気持ちで自分を待っていたのかと場違いな妄想に入りそうになったのを押しとどめたところで、理子が誠に気付いて胸のあたりで手を振った。
「こんな場所を指定するなんて、清州くんて、見かけに依らず遣り手なんじゃない? 今日は一体、どこへ連れて行ってくれるのかなぁ?」
……驚くほどの甘いメゾソプラノが放つ妖しい物言いに思わずたじろぐ。
「ぼ、僕が決めるんですか?」
とこちらは頓馬(とんま)な返事で(年上の理子が決めるものと本気で思っていた)、後は矢継ぎ早に何事をか理子が喋り、恐らく行き先を挙げてはその説明を加えていたのだろうが、誠は面食らって動揺の沈め方も分からない。未経験の年下の自分に彼女から申し出て来た、それをどう考えたらいいのか、と混乱した思考に陥っていたのを辛うじて浮上させ呼吸を整える。この暑い季節の初デート? 動物園や水族館、あるいは景勝な公園とか遊園地? 思い浮かべられるのは陳腐(ちんぷ)な場所ばかり、と言って屋内の、例えば映画館や美術館、あるいはプラネタリウム。いっそ自分の家(うち)? まさか。これじゃ自分から言うのは烏滸(おこ)がまし過ぎる。
「黙ってないで何とか言ってよ。わたしはこの際、誠くんの提案に一も二も無く従うわ」
どうも会話がチグハグで誠の思うように運ばない。理子の決め打ちで誠は一気に追い込まれた。だけど、ずうっと付き合うわけじゃなし、なら、どこだっていいじゃん、と開き直る。精神一到何ごとかなさざらん、生真面目な主体を背面に押し遣り裏に潜む自分を表に立たせる。いい加減な面も誠にはあるのだった。
あれ? その時、ふと気づく。「清州くん」が「誠くん」に変わっていた、怖いな女性はといつもの恐怖が立つ。同時にそんなことで揺らいでいたら話が進まぬ、こちらは「滝井さん」で通そうと瞬時に決めた。
それで思い出したのは、かなり前に週刊誌で「下り藤」の写真が掲載されていたことを。それに小学生の頃の記憶も重なった。その絢爛(けんらん)豪華さに家族皆んなが見惚(みと)れたのだ。でも、あの日の暑さに堪えられなくなって、誰言うとなく涼しいところに避難しようということで家族一致。その時だった、普段は行先を家族任せにする父親が、「じゃあダム見学だ」と言ったのだ。小学校の社会見学で誠は県内随一の施設を見ていたが、父が言うにはそんな観光スポットではなくても涼気(りょうき)を浴びるにダムってのは一理あるんだぞと断言する。「なんだか怖い」と妹が言ったのはまだ一年生、何を恐れたのか誠には見当もつかないし、両親も取り上げなかった(……で、四、五十分後、皆んな揃って感激の声を上げることになる)。
決めた、ダムだ! 何だか連想ゲームのような流れが面白かった。
誠がいかにも下手に出るような言い方で、
「滝井さん、それじゃあ、ダム見学というのはどうですか。涼気を浴びるに恰好な場所だと思います」
「ダム? どこの? どこにあるの?」
理子の表情にハテナマークが幾つも飛ぶ。
「わたしは知らないわよ」と首を捻って、
「行き方もちゃんと調べてね、一時頃には着くように。お昼にサンドイッチ持ってきてるから丁度よく到着するようによ」
「はい、了解です」と返事しながら誠は思う。やっぱり主導権は握られているじゃんかと。持参した地図に指をなぞらせる。滝井理子は他所(よそ)を向いてハンカチを団扇代わりにそよがせている。
幸い、意外な近さに見つけた。「駒(こま)平(だいら)ダム」、聞いたことが無いダムではあるが。
「駒平ダムっていうのがあります。バスで三〇分も掛からない。但し、ここからだとバス停まで二〇分くらいは掛かるかな」
「ええっ? ……いいわ、歩きましょ」
「そうですよ。僕は滝井さんのこと、何にも知らないんですから。ずうっと膝枕して貰うことになった経緯(けいい)も道々教えてください」
これで退く理子ではない筈。先輩だからという以上に、体育系だし端(はな)から押しの強い印象があった。なのに、この日の服装とのチグハグさが何とも愉快だった。尤も、いっつも半袖シャツにジーンズの自分が評する資格は無いだろうけど。
時間的流れに沿えばいいだけの余裕が生まれて互いのお喋りに勢いが付いた。誠よりはやや背が低いのに理子の歩調に合わせるのに誠は苦心する。自然、理子の背と会話する感じとなったが寧(むし)ろ喋り易かった。高松からやって来るのに一人娘の理子の両親はずうっと反対だった。けれどいつまで経っても子離れしない親の存在が煙たくてならなかったので寮生活を安心条件に組み込んで納得させ今を楽しんでいる。卒業後は地元に戻って中学校の教師になろうと思っていると言ったので初めて学部を知った。「体育科ですか」と聞いたらいきなり振り返ってコツンとやられた。四年間寂しい思いをさせたから卒業後は高松に戻りお婿さん探しでもやって貰って親孝行したいのだそうだ。恐る恐る教科を聞いてのけぞった。家庭科だった。
「なあに、何かおかしい? 文句ある? 美味しいサンドイッチ食わしてやんねえぞ」
そう来たか。砕けた物言いにではなく、うっすらと恋人気分の駆け引きに誠はついていけ
ず照れ笑いするよりなかった。
また、突然足を止めるや振り返り、理子が明らかな不安、不自然な真面目さを一緒くたに
表情にまとめた。そしてくるりと向き直ってまた歩き始める。
「わたしね、誠くん。……初めてなの、デートって」
「あ、そう……、ええっ?」
立ち止まったり慌てて付いて行ったり、追尾に翻弄(ほんろう)されてた誠もさすがに適当には聞き逃せなかった。驚いて言葉を失う、気も失いそう。
「小四からテニスにずっぽり嵌(はま)って、……スカート履いたのだって、ほんと久し振り……信じられないでしょ」
「あ、はい。いえ、……でも、お似合いですよ」(言った!)
「ま、お世辞もデートの鉄則?」
「ち、違いますよ。ほんとに可愛らしい恰好(かっこう)だと思います」(向かい合っていないからだ、誉め言葉をすんなり吐き出せた! 「僕も」の告知はタイミングが悪く言い出せなかった)。
「まあ、いいわ。だからだと思うんだけど、ダムってのはかなりユニークね、驚いちゃった」「そうですね、珍しいと思います」
「なに、それ。わたしのイメージで選んだということなのかな?」(どんな表情で言ってるのだろう? 何だか可愛いらしいと思った)
「まさか、違いますよ(一体どういうことだ?)。涼しさを求めた結果です。二人っきりになれるという条件も……」
「ほんと。誠くんってやっぱり隅に置けない……」
理子が歩度を緩めて手を繋いできた。瞬間的に汗が噴き出た、お互いに。
一(ひと)括(くく)りで言えば温暖化現象。人間が引き起こした大過誤はけっして後戻りできぬ人類盛衰史の結節点になった。今年も続く異常気象が遂に爆発したかのような猛暑、当初は暴力的な日光を避けるべく、肌の露出や外出を控えることで乗り切ろうとしたけれど、今となっては辟易(へきえき)するだけなら結果は悲惨と果敢に挑んでいくべきとする自虐的風潮も生まれた。それでも、帽子、サングラス、手軽な扇風機様のもの、水筒、汗を処理するタオル類、スキンクリーム、これらを必需品として外出するようになっていた。
八月の第四日曜だもの、家に閉じ籠っているのが無難であって、避暑に赴くのさえも暑さへの挑戦と言えるほどだった。二人も優雅な避暑といかないのは端から覚悟、どこへ行ってもいいようなわけだが、ダム見学にはさすがに意表を衝かれた理子である。でも、大量に迸(ほとばし)る水を目にするならさぞ涼しくなるだろうとも想像した。ただ、意識して選んた記念すべき衣装はあまりのミスマッチ、相手に甘える意図が招いた行先だから今さら変更など望むまい。布地が肌にへばり付く気持ち悪さが昂じた時などせめて清潔なトイレがあればいいなぁとあえかな期待も望むだけ無駄だと察するはさすがに大学生。
路面から蒸気が立ち上る。陽の当たるところは全て熱を蓄え込んでいる。逃げ水を追いかける年齢じゃなし、今さらアスファルトの照り返しの辛さを口にして何になるか。理子はだんだん喋り方を変えた。少し気取った感じの高いキーの地声も今は幾らかトーンを落とした。にしても誠の質問の幼稚さはなんだったろう。軽々(けいけい)に回答を引き出し続ける結果がやがてはぞんざいな言葉の羅列(られつ)とさせ、次第に会話の勢い自体を奪って、しまいには無言で暑さに挑もうとする意志さえをも消し去った。無性に暑いからか。かれこれ三十分を優に超えた。何より初デートと告白したことで妙な構えが無くなった為だろう、理子は最初クイズのような応答を楽しんでいたが、もう幾分も返事をしていない。何が二十分じゃい、苛立つと余計に暑くなる、体じゅうが燃えて来る。
そんな遣り取りでも誠の脳裏には理子の身上書のようなデータが刻まれた。男女の付き合いの第一歩は互いを理解し合うこと、疑うことなく理子に尋ねた。途中で一方的過ぎることに気付いたが、理子の問いは近々の話題を幾つかする程度でどうにも釣り合わない。話が盛り上がり損ねたのを暑さの所為にした。尤もデートの会話の話題には何が相応しいのか、と少々大義に捉え過ぎたかと反省もした。案外、相手の指一本捉えるだけで恋に落ち、長い交際となるのかも知れない。何しろバージン説急上昇だもんね、拙いんじゃないか。滝井さんとそうした付き合いをしたいわけではなかったし……。そこで……。
そうだ、何となく矛先を躱(かわ)されていたが、やっぱりあの夜のことを聞くことにするか? 二人の接点は元々それだけなのだから、と誠は思い付く。
「そんなこと、まだ気にしてるの? 別に偶然よ。誠くんがベッドの端に座っていて、いえ、違うわね。最初からベッドの端の壁に凭(もた)れていて男女が入れ違いに八人いたから私が隣、その次が偉そうな工藤さんだった。みんな賑やかに他愛無(たわいな)い談笑に興じていたわ。そうねぇ、一〇分も経ってなかったと思う。誠くんが崩れるように半身を倒し始めたのを受け止めてやろうと思ったら自然に私の膝で寝込む形になったの。それでも床に落ちそうな体勢だったから両手で引き寄せてあげた。私のお腹に顔を埋める感じ、……嫌じゃなかったわよ、誠君は初めから可愛いと思っていたし、隣に座ってくれたんだから。いや、工藤さんが誠くんを壁に凭せ掛けて間にわたしを招じ入れたのね。勿論、工藤さんにもわたしにも他意は無かったのよ。
別に、変なことは無かったわ。誠くんの腕や手の動きには斜め向かいの、何と言ったかなあ、五木君だっけ、常に目を見張らせては悪戯しないようガードしてくれてたもの。工藤さんに命じられたのね。……膝じゃなくて腿だったから辛くなんかなかった。だけどお腹に顔を埋めてモゴモゴ言ってたの、意味不明だったけど。……ようく考えると微妙な位置よね」
いけしゃあしゃあとした理子の話し振りに対して誠はただ茫然と聞くだけだった。
「すみません、反省してます。充分、理解しました、ご無礼は無かったんですね。なら、いいんです。缶ビール一杯で幾ら下戸の僕でもああはなりません。一気に飲んで女子寮まで突っ走るってのがバカです。……まあ、バカにならないとできないのがストームの伝統ですから。来年は止めとくかな?」
「えっ、わたしのところへもう来てくれないの?」
「ええっ? ……もちろん、そうです。だいたい寮生じゃないんですから」
「えっ、寮生じゃないの?」
「はい、しょっちゅうお邪魔してるもんだから寮長許可が出たんです」
「そうなの。まっ、正直ね。それじゃあ拙いか。カップルになっちゃったりしたら問題扱いされちゃうものね。……どうりで見かけない顔だと思ってたのよ」
たった一つの差とは言え、言葉の端々に年齢差を意識してしまうのはなぜなのか。抑々何が聞きたかったのか。二時間も女の股に顔を埋める非日常性における能動者と受動者の妖しげな感覚のことか。その昔、女郎(じょろう)の膝を枕に耳掃除してもらうのが極楽などと書かれた文章に誇張が過ぎるなと疑ったが、いずれそんな気持ちが分かるようになるのだろうか。少なくとも自分には何も無くても理子に不快の念を起こさせたのでは悪かったとお詫びしなけりゃとの気持ちからだった。いや、違う。痩(や)せぎすでも理子の膝の温もりに自分は心地よさを感じていたことは確かであってそれへの感謝もあった。好悪を越えてふくよかな女の肉に埋もれるのは男故の快感だった。どう表現しようと理子に聞いて求められるものでは最初から無かったのかも知れない。だが、スラックスの人で良かったよなと真実思っていた。
そう見切りを付けると今日は飽くまで継続無しの一回限りのデートなのだと誠は思った。となれば後は駒平ダムで理子に喜んでもらえればいいわけである。
二人ともかなりの汗を掻いてバス停に辿り着いた。バスダイヤを確かめるうちに絶妙のタイミングで丘の下に広がる住宅地から小さなバスが登ってくるのが見えた。小型バスの走る地域があるのだと知る。
空いてる車内なのに二人並んで座るのがどうにも落ち着かない。汗の匂いも気になった。
「誠くんは今朝、何時に起きたの?」
「何時だったかなあ」つまらぬ回答だ。
「そうすると、ストームは初めてだったのね?」
「ど、どうしてですか……」……何が(そうすると)だ?
滝井さんがくすっと噴き出した。さすがに情けなくなって、
「おかしいですか? 一体何が?」
「いや、おかしいんじゃなくて、とっても可愛かったということ。真っ赤な顔していきなり壁にドスンでしょ。その後で私に倒れ込んできて、とっても素直な寝顔だった。赤ちゃんみたいに純粋な眠り顔で。実習に使うマコちゃんとおんなじ……翌朝はもう寮内で話題になってたわ。こんなこと前代未聞ですものね」
「アッ、だから笑ったんですか。マコちゃんって女の子の人形ですか」
「マコちゃんは男の子でミコちゃんが女の子よ。誠くんの寝顔もあんまり可愛くてみんながいなけりゃたっぷり可愛がってたわね。ただ膝を貸していただけだったから、理子、たっぷりお礼して貰わなくちゃね、って言われて。そうねって答えて出てきたわ」
「そうですか。そのお礼がダム見学じゃあ、また笑われちゃいますね。すみません、咄嗟に候補を浮かべられるほどデータが無いんです。……データ不足はデート不足が原因です」
「お上手、座布団一枚。……ちょっと古いか」
「分かります。『笑点』ですよね。座布団運びの……何て言いましたっけ」
「敬語は止めましょ、腿で結ばれた仲だもの。たった一歳の違いなんだし。真っ赤な着物の山田君でしょ」
「そうそう、彼、何歳か知ってる?」
「知らない。タイプじゃないから」
「タイプなんて問題じゃないでしょ、もう高齢者なんですよ」
「年齢不詳の人っているわよね。今日のわたしは誠くんに合わせて来たつもりなの」
「……? もう、充分です。僕より下に見られてますよ」
「あら、そう? 丁寧語が取れてないけど、嬉しいわ。でも、そうなら私の方がお昼持ってきちゃってあべこべ、悪かったかな?」
「いえ、ありがたいです、もとい、カタジケナイ。これは変か? お昼なんて考えさせられると、またダムみたいに迷っちゃうから」
先ほどから人の気配が意識されていた。一つ前で乗り込んできた母子(おやこ)だ。左側の席にいる母子の方へ視線をずらすと、母親の膝越しにこちらをじいっと見ている小学生低学年と思(おぼ)しき男の子がこちらを見ていた。誠の方が気恥ずかしくなって、だから少し睨んでやったらこれ見よがしに母親の膝に頭を乗せた。
大学生になって初めて、所謂「デート」に挑んだ男の胸中が想像できようか。選んだ相手は理想とは異なって当然のこと(その頃は女優の内藤洋子が理想像だった)、向こうが自分を離してくれなくてと言い訳する無責任な狡さも否めなかった。
誠の大学には程近い距離に男子寮、女子寮があって、年に一度、すなわち旧暦の八月望の日、男子寮生が女子寮にストームを掛けても良いとする現代版「夜這い」に匹敵する野卑な恒例行事があった。自宅生の誠が二年の頃、学科内で親しくなった寮生の金子達(たつる)に引き摺られてしょっちゅう寮に出入りしていた。それが縁で同学科の先輩たちにも誘われて飲み会だけでなく麻雀や撞球など遊びも共にしていた誼(よしみ)からストームにも加わって良いとの寮長の許可を貰うことができたのだ(内実は金子が誠を男にせんと目論(もくろ)んで引き摺り込んだと後で知った)。
互いの寮の半数は参加する規模のお祭りで、男子寮生は四名ずつ組になって午後七時、食堂で缶ビール一本を引っ掛けるや否や女子寮へと喚声上げての猛ダッシュ。二人部屋の女の子もめいめい部屋を移動して四人で待っているのが基本ルール、開錠している部屋にはノブに赤いハンカチが結ばれているというゾクッとするオールド・ファッションだ。ベランダの手摺にもハンカチが括られているのは二階まではそこから忍び込む者等もいるからだった(昔は四階建ての寮のこと、最上階まで攀(よ)じ登る蛮カラもいたのだが数年前に三階から転落した者がいて制限が掛かった)。四対四なのも昔は違ったという話で飽くまで紳士淑女の異性交遊、健全な趣旨に沿っての自主的制限が一応設けられたけれど、本来は二人部屋に男女八名は嫌でも体の接触が避けられない方を取ったに過ぎず、だからその絶対ルールに文句を言う輩はいなかった。
いかな下戸の誠でも一缶くらいならと嘯(うそぶ)き女子寮までの全力疾走、この一〇分がきつかった。三階まで駆け上がった時にはもうヘロヘロ状態で、開けられたドアから先輩の背に引っ付いてふらふら入室、きょろきょろ部屋を眺めて男子寮とのあまりに異なる綺麗さを確認したまでの記憶でパッツン。それ以降は睡魔に襲われどつぼに嵌ったまま、強引に肩を揺すられ挙句の果てはビンタを食らわされてはさすがに意識は復活したものの、周囲の慌ただしい混乱の理由も分からず、先輩の「清州っ! 帰るぞ」の言葉に驚きかつ震えた。
「よく寝られたもんだ。彼女は滝井さん。お前をずうっと膝枕してくれてたんだぞ。明日にでもたっぷりお礼をするんだな」と怪しく叱責(しっせき)だか助言だかをされた。
そうは言われても膝枕の感触など残ってはいず、まして見も知らぬ女性の膝を二時間も占拠していたなど想像するもあまりある羞恥、手荒に引っ張り出されるのに懸命に足取り合わせて意味不明瞭な言葉を口真似するばかりだった。せめてその女性を我が目に焼き付けるべく振り返っても四名の彩り豊かな普段着たちが上下左右ばらばらに手を振っていて、「その名は滝井さん」が見分けられる筈もなかった。金子などホントに一緒にいたのだか、全く記憶が無いし、誠の相談にも、どこ吹く風の生返事でちっとも乗ってくれなかった。
ストームで生まれるカップルもままいるというが、総じてプラス一、二回のデートで終わるのが関の山とか。妙な肉体接触を縁と持ち上げられ、翌日誠は勇気を出して女子寮を訪ねた。
三階の住人の滝井理子(りこ)さんは三年生(三三の符合に他愛無く分かり易いと思った)、持参のケーキ(ショートケーキ二個、同室の子の分はない。いたら涙を呑んであげるさと吝嗇(りんしょく)家は考えていた)を渡すのと交換に部屋内に誘われた。相手が年上なら敬語を使わねばならず、並行して動作もぎこちなくなればピンクのベッドカバーの端に遠慮気味に座ろうとして、赤いカーペットの滑らかさ尻を滑らせ床に落っこちた。慌てた所為で起きようとしてまたも尻もち、失笑を買った誠が相手の心理を読めたわけも無い。同室の子は一年生で一講目から真面目に授業に行ったという。理子はケーキに紅茶を取り合わせたトレイを不安定なベッドに巧みに置いた。自身は机とセットの椅子に腰かけ「お持たせですけど、どうぞ」と言った時、初めて真正面から「滝井理子さん」を拝み見た。長い顔だった。肩までの髪を素直に流しているのは好みだったが、愛嬌あるクリクリっとした目が長い顔とバランスが悪く思えた。肌が黒いのはテニス部で連日ラケットを握っている所為とかで、「何度クリームを塗ってもどこかしら肌が剥(む)けてくるのよねぇ」と笑い飛ばすあたり、全然気にしていない様子。背丈は誠くらいあって一六七センチ、痩せぎす・筋肉質の体形も内藤洋子にゃ程遠い。
「夜八時までは男性を部屋に入れてもいいルールなの、知ってた?」
「いえッ、……そうなんですね」
「でも、朝は何時からとは決まってないのよ、知ってた? 知るわけないわよね」
とまた大口で笑う。
「朝四時ってどう? 暗いでしょ、ねッ!」
「はあ?」
理子が左右に首を振って、
「もう、いいわ」と打ち切った。
ケーキ、紅茶をベッドに零すまいと緊張した為か、自己紹介をした程度で、再度、前夜の失礼を詫びて去ろうとした誠に、
「清州くん、これで終わり? 一回くらいデートしてくれないの?」
こう言われてどれくらいの男が断れるだろう。後追いのタイミングで声を掛けて来た理子に、これは好かれちまったか、と意外にもふてぶてしい己の心を覗(のぞ)けたのは、それ迄の間に滝井先輩に初心(うぶ)な面があるのを見抜けたからであって、自身の観察力に感心しながらも体の震えは一向に抑えようが無かったのも事実である。反芻しているうちに理子が返答を待っているのを忘れていた。
「ね、しようよ」
「えッ、しようって?」
「デートよ」
「あっ、そうなんですね」(と、ふてぶてしいも呆れるほどで)
ここは女性に恥を掻かせてはならぬ、踏ん張らねば男じゃないとばかりに勇んで、
「じゃあ、今度の土曜でいいですか。……十時に大学図書館の三一〇番の棚辺りで会いまし
ょう」
と立て板に水の返答に理子が面食らったふうに瞳を吊り上げ、それでも「はい」としおら
しく答えたものだ。
不思議に通るメゾソプラノでの了解を得ると、初デートの咄嗟(とっさ)の誘いとしては上出来(じょうでき)だ
ったと自己評価し、「俺は漢(おとこ)ぞ」とにんまりした。が、何をするにもビクビクものだった
だけに夜になっても落ち着かず朝まで悶々と過ごした。
さて、三日後の土曜日。さすがに三一〇番台の書架の前にいたのは理子だけだった。ガーリー系というのか、ピンクの花柄のブラウスに焦げ茶のチェックのサスペンダースカート。肩紐と裾に白のフリルがあしらわれ、おまけに片腕には籐(とう)籠(かご)を提げていた。子供っぽいのが寧ろ誠をドギマギさせ、誠の足はその場で凍り付いた。自分なりの尺度での思い切ったオシャレに自信があるのだろうか、よく似合ってはいる。けれども大学図書館には超ミスマッチで、これは彼女の所為ではなく誠に非があった、申し訳なく思っているのを察してくれぬものだろうか。書架から覗き見る誠にまだ気付いていない。
どれほど前から来ていたのだろう、とドラマのように思った。一瞬、どういう気持ちで自分を待っていたのかと場違いな妄想に入りそうになったのを押しとどめたところで、理子が誠に気付いて胸のあたりで手を振った。
「こんな場所を指定するなんて、清州くんて、見かけに依らず遣り手なんじゃない? 今日は一体、どこへ連れて行ってくれるのかなぁ?」
……驚くほどの甘いメゾソプラノが放つ妖しい物言いに思わずたじろぐ。
「ぼ、僕が決めるんですか?」
とこちらは頓馬(とんま)な返事で(年上の理子が決めるものと本気で思っていた)、後は矢継ぎ早に何事をか理子が喋り、恐らく行き先を挙げてはその説明を加えていたのだろうが、誠は面食らって動揺の沈め方も分からない。未経験の年下の自分に彼女から申し出て来た、それをどう考えたらいいのか、と混乱した思考に陥っていたのを辛うじて浮上させ呼吸を整える。この暑い季節の初デート? 動物園や水族館、あるいは景勝な公園とか遊園地? 思い浮かべられるのは陳腐(ちんぷ)な場所ばかり、と言って屋内の、例えば映画館や美術館、あるいはプラネタリウム。いっそ自分の家(うち)? まさか。これじゃ自分から言うのは烏滸(おこ)がまし過ぎる。
「黙ってないで何とか言ってよ。わたしはこの際、誠くんの提案に一も二も無く従うわ」
どうも会話がチグハグで誠の思うように運ばない。理子の決め打ちで誠は一気に追い込まれた。だけど、ずうっと付き合うわけじゃなし、なら、どこだっていいじゃん、と開き直る。精神一到何ごとかなさざらん、生真面目な主体を背面に押し遣り裏に潜む自分を表に立たせる。いい加減な面も誠にはあるのだった。
あれ? その時、ふと気づく。「清州くん」が「誠くん」に変わっていた、怖いな女性はといつもの恐怖が立つ。同時にそんなことで揺らいでいたら話が進まぬ、こちらは「滝井さん」で通そうと瞬時に決めた。
それで思い出したのは、かなり前に週刊誌で「下り藤」の写真が掲載されていたことを。それに小学生の頃の記憶も重なった。その絢爛(けんらん)豪華さに家族皆んなが見惚(みと)れたのだ。でも、あの日の暑さに堪えられなくなって、誰言うとなく涼しいところに避難しようということで家族一致。その時だった、普段は行先を家族任せにする父親が、「じゃあダム見学だ」と言ったのだ。小学校の社会見学で誠は県内随一の施設を見ていたが、父が言うにはそんな観光スポットではなくても涼気(りょうき)を浴びるにダムってのは一理あるんだぞと断言する。「なんだか怖い」と妹が言ったのはまだ一年生、何を恐れたのか誠には見当もつかないし、両親も取り上げなかった(……で、四、五十分後、皆んな揃って感激の声を上げることになる)。
決めた、ダムだ! 何だか連想ゲームのような流れが面白かった。
誠がいかにも下手に出るような言い方で、
「滝井さん、それじゃあ、ダム見学というのはどうですか。涼気を浴びるに恰好な場所だと思います」
「ダム? どこの? どこにあるの?」
理子の表情にハテナマークが幾つも飛ぶ。
「わたしは知らないわよ」と首を捻って、
「行き方もちゃんと調べてね、一時頃には着くように。お昼にサンドイッチ持ってきてるから丁度よく到着するようによ」
「はい、了解です」と返事しながら誠は思う。やっぱり主導権は握られているじゃんかと。持参した地図に指をなぞらせる。滝井理子は他所(よそ)を向いてハンカチを団扇代わりにそよがせている。
幸い、意外な近さに見つけた。「駒(こま)平(だいら)ダム」、聞いたことが無いダムではあるが。
「駒平ダムっていうのがあります。バスで三〇分も掛からない。但し、ここからだとバス停まで二〇分くらいは掛かるかな」
「ええっ? ……いいわ、歩きましょ」
「そうですよ。僕は滝井さんのこと、何にも知らないんですから。ずうっと膝枕して貰うことになった経緯(けいい)も道々教えてください」
これで退く理子ではない筈。先輩だからという以上に、体育系だし端(はな)から押しの強い印象があった。なのに、この日の服装とのチグハグさが何とも愉快だった。尤も、いっつも半袖シャツにジーンズの自分が評する資格は無いだろうけど。
時間的流れに沿えばいいだけの余裕が生まれて互いのお喋りに勢いが付いた。誠よりはやや背が低いのに理子の歩調に合わせるのに誠は苦心する。自然、理子の背と会話する感じとなったが寧(むし)ろ喋り易かった。高松からやって来るのに一人娘の理子の両親はずうっと反対だった。けれどいつまで経っても子離れしない親の存在が煙たくてならなかったので寮生活を安心条件に組み込んで納得させ今を楽しんでいる。卒業後は地元に戻って中学校の教師になろうと思っていると言ったので初めて学部を知った。「体育科ですか」と聞いたらいきなり振り返ってコツンとやられた。四年間寂しい思いをさせたから卒業後は高松に戻りお婿さん探しでもやって貰って親孝行したいのだそうだ。恐る恐る教科を聞いてのけぞった。家庭科だった。
「なあに、何かおかしい? 文句ある? 美味しいサンドイッチ食わしてやんねえぞ」
そう来たか。砕けた物言いにではなく、うっすらと恋人気分の駆け引きに誠はついていけ
ず照れ笑いするよりなかった。
また、突然足を止めるや振り返り、理子が明らかな不安、不自然な真面目さを一緒くたに
表情にまとめた。そしてくるりと向き直ってまた歩き始める。
「わたしね、誠くん。……初めてなの、デートって」
「あ、そう……、ええっ?」
立ち止まったり慌てて付いて行ったり、追尾に翻弄(ほんろう)されてた誠もさすがに適当には聞き逃せなかった。驚いて言葉を失う、気も失いそう。
「小四からテニスにずっぽり嵌(はま)って、……スカート履いたのだって、ほんと久し振り……信じられないでしょ」
「あ、はい。いえ、……でも、お似合いですよ」(言った!)
「ま、お世辞もデートの鉄則?」
「ち、違いますよ。ほんとに可愛らしい恰好(かっこう)だと思います」(向かい合っていないからだ、誉め言葉をすんなり吐き出せた! 「僕も」の告知はタイミングが悪く言い出せなかった)。
「まあ、いいわ。だからだと思うんだけど、ダムってのはかなりユニークね、驚いちゃった」「そうですね、珍しいと思います」
「なに、それ。わたしのイメージで選んだということなのかな?」(どんな表情で言ってるのだろう? 何だか可愛いらしいと思った)
「まさか、違いますよ(一体どういうことだ?)。涼しさを求めた結果です。二人っきりになれるという条件も……」
「ほんと。誠くんってやっぱり隅に置けない……」
理子が歩度を緩めて手を繋いできた。瞬間的に汗が噴き出た、お互いに。
一(ひと)括(くく)りで言えば温暖化現象。人間が引き起こした大過誤はけっして後戻りできぬ人類盛衰史の結節点になった。今年も続く異常気象が遂に爆発したかのような猛暑、当初は暴力的な日光を避けるべく、肌の露出や外出を控えることで乗り切ろうとしたけれど、今となっては辟易(へきえき)するだけなら結果は悲惨と果敢に挑んでいくべきとする自虐的風潮も生まれた。それでも、帽子、サングラス、手軽な扇風機様のもの、水筒、汗を処理するタオル類、スキンクリーム、これらを必需品として外出するようになっていた。
八月の第四日曜だもの、家に閉じ籠っているのが無難であって、避暑に赴くのさえも暑さへの挑戦と言えるほどだった。二人も優雅な避暑といかないのは端から覚悟、どこへ行ってもいいようなわけだが、ダム見学にはさすがに意表を衝かれた理子である。でも、大量に迸(ほとばし)る水を目にするならさぞ涼しくなるだろうとも想像した。ただ、意識して選んた記念すべき衣装はあまりのミスマッチ、相手に甘える意図が招いた行先だから今さら変更など望むまい。布地が肌にへばり付く気持ち悪さが昂じた時などせめて清潔なトイレがあればいいなぁとあえかな期待も望むだけ無駄だと察するはさすがに大学生。
路面から蒸気が立ち上る。陽の当たるところは全て熱を蓄え込んでいる。逃げ水を追いかける年齢じゃなし、今さらアスファルトの照り返しの辛さを口にして何になるか。理子はだんだん喋り方を変えた。少し気取った感じの高いキーの地声も今は幾らかトーンを落とした。にしても誠の質問の幼稚さはなんだったろう。軽々(けいけい)に回答を引き出し続ける結果がやがてはぞんざいな言葉の羅列(られつ)とさせ、次第に会話の勢い自体を奪って、しまいには無言で暑さに挑もうとする意志さえをも消し去った。無性に暑いからか。かれこれ三十分を優に超えた。何より初デートと告白したことで妙な構えが無くなった為だろう、理子は最初クイズのような応答を楽しんでいたが、もう幾分も返事をしていない。何が二十分じゃい、苛立つと余計に暑くなる、体じゅうが燃えて来る。
そんな遣り取りでも誠の脳裏には理子の身上書のようなデータが刻まれた。男女の付き合いの第一歩は互いを理解し合うこと、疑うことなく理子に尋ねた。途中で一方的過ぎることに気付いたが、理子の問いは近々の話題を幾つかする程度でどうにも釣り合わない。話が盛り上がり損ねたのを暑さの所為にした。尤もデートの会話の話題には何が相応しいのか、と少々大義に捉え過ぎたかと反省もした。案外、相手の指一本捉えるだけで恋に落ち、長い交際となるのかも知れない。何しろバージン説急上昇だもんね、拙いんじゃないか。滝井さんとそうした付き合いをしたいわけではなかったし……。そこで……。
そうだ、何となく矛先を躱(かわ)されていたが、やっぱりあの夜のことを聞くことにするか? 二人の接点は元々それだけなのだから、と誠は思い付く。
「そんなこと、まだ気にしてるの? 別に偶然よ。誠くんがベッドの端に座っていて、いえ、違うわね。最初からベッドの端の壁に凭(もた)れていて男女が入れ違いに八人いたから私が隣、その次が偉そうな工藤さんだった。みんな賑やかに他愛無(たわいな)い談笑に興じていたわ。そうねぇ、一〇分も経ってなかったと思う。誠くんが崩れるように半身を倒し始めたのを受け止めてやろうと思ったら自然に私の膝で寝込む形になったの。それでも床に落ちそうな体勢だったから両手で引き寄せてあげた。私のお腹に顔を埋める感じ、……嫌じゃなかったわよ、誠君は初めから可愛いと思っていたし、隣に座ってくれたんだから。いや、工藤さんが誠くんを壁に凭せ掛けて間にわたしを招じ入れたのね。勿論、工藤さんにもわたしにも他意は無かったのよ。
別に、変なことは無かったわ。誠くんの腕や手の動きには斜め向かいの、何と言ったかなあ、五木君だっけ、常に目を見張らせては悪戯しないようガードしてくれてたもの。工藤さんに命じられたのね。……膝じゃなくて腿だったから辛くなんかなかった。だけどお腹に顔を埋めてモゴモゴ言ってたの、意味不明だったけど。……ようく考えると微妙な位置よね」
いけしゃあしゃあとした理子の話し振りに対して誠はただ茫然と聞くだけだった。
「すみません、反省してます。充分、理解しました、ご無礼は無かったんですね。なら、いいんです。缶ビール一杯で幾ら下戸の僕でもああはなりません。一気に飲んで女子寮まで突っ走るってのがバカです。……まあ、バカにならないとできないのがストームの伝統ですから。来年は止めとくかな?」
「えっ、わたしのところへもう来てくれないの?」
「ええっ? ……もちろん、そうです。だいたい寮生じゃないんですから」
「えっ、寮生じゃないの?」
「はい、しょっちゅうお邪魔してるもんだから寮長許可が出たんです」
「そうなの。まっ、正直ね。それじゃあ拙いか。カップルになっちゃったりしたら問題扱いされちゃうものね。……どうりで見かけない顔だと思ってたのよ」
たった一つの差とは言え、言葉の端々に年齢差を意識してしまうのはなぜなのか。抑々何が聞きたかったのか。二時間も女の股に顔を埋める非日常性における能動者と受動者の妖しげな感覚のことか。その昔、女郎(じょろう)の膝を枕に耳掃除してもらうのが極楽などと書かれた文章に誇張が過ぎるなと疑ったが、いずれそんな気持ちが分かるようになるのだろうか。少なくとも自分には何も無くても理子に不快の念を起こさせたのでは悪かったとお詫びしなけりゃとの気持ちからだった。いや、違う。痩(や)せぎすでも理子の膝の温もりに自分は心地よさを感じていたことは確かであってそれへの感謝もあった。好悪を越えてふくよかな女の肉に埋もれるのは男故の快感だった。どう表現しようと理子に聞いて求められるものでは最初から無かったのかも知れない。だが、スラックスの人で良かったよなと真実思っていた。
そう見切りを付けると今日は飽くまで継続無しの一回限りのデートなのだと誠は思った。となれば後は駒平ダムで理子に喜んでもらえればいいわけである。
二人ともかなりの汗を掻いてバス停に辿り着いた。バスダイヤを確かめるうちに絶妙のタイミングで丘の下に広がる住宅地から小さなバスが登ってくるのが見えた。小型バスの走る地域があるのだと知る。
空いてる車内なのに二人並んで座るのがどうにも落ち着かない。汗の匂いも気になった。
「誠くんは今朝、何時に起きたの?」
「何時だったかなあ」つまらぬ回答だ。
「そうすると、ストームは初めてだったのね?」
「ど、どうしてですか……」……何が(そうすると)だ?
滝井さんがくすっと噴き出した。さすがに情けなくなって、
「おかしいですか? 一体何が?」
「いや、おかしいんじゃなくて、とっても可愛かったということ。真っ赤な顔していきなり壁にドスンでしょ。その後で私に倒れ込んできて、とっても素直な寝顔だった。赤ちゃんみたいに純粋な眠り顔で。実習に使うマコちゃんとおんなじ……翌朝はもう寮内で話題になってたわ。こんなこと前代未聞ですものね」
「アッ、だから笑ったんですか。マコちゃんって女の子の人形ですか」
「マコちゃんは男の子でミコちゃんが女の子よ。誠くんの寝顔もあんまり可愛くてみんながいなけりゃたっぷり可愛がってたわね。ただ膝を貸していただけだったから、理子、たっぷりお礼して貰わなくちゃね、って言われて。そうねって答えて出てきたわ」
「そうですか。そのお礼がダム見学じゃあ、また笑われちゃいますね。すみません、咄嗟に候補を浮かべられるほどデータが無いんです。……データ不足はデート不足が原因です」
「お上手、座布団一枚。……ちょっと古いか」
「分かります。『笑点』ですよね。座布団運びの……何て言いましたっけ」
「敬語は止めましょ、腿で結ばれた仲だもの。たった一歳の違いなんだし。真っ赤な着物の山田君でしょ」
「そうそう、彼、何歳か知ってる?」
「知らない。タイプじゃないから」
「タイプなんて問題じゃないでしょ、もう高齢者なんですよ」
「年齢不詳の人っているわよね。今日のわたしは誠くんに合わせて来たつもりなの」
「……? もう、充分です。僕より下に見られてますよ」
「あら、そう? 丁寧語が取れてないけど、嬉しいわ。でも、そうなら私の方がお昼持ってきちゃってあべこべ、悪かったかな?」
「いえ、ありがたいです、もとい、カタジケナイ。これは変か? お昼なんて考えさせられると、またダムみたいに迷っちゃうから」
先ほどから人の気配が意識されていた。一つ前で乗り込んできた母子(おやこ)だ。左側の席にいる母子の方へ視線をずらすと、母親の膝越しにこちらをじいっと見ている小学生低学年と思(おぼ)しき男の子がこちらを見ていた。誠の方が気恥ずかしくなって、だから少し睨んでやったらこれ見よがしに母親の膝に頭を乗せた。
