誠実
公開 2026/04/04 18:30
最終更新
2026/04/04 18:30
長澤知之の新曲「愛されたいと思うなら」がめちゃくちゃ好きだ。
そのまま恋愛の曲ともとれるし、長澤知之のアーティストとしての決意を描いているようにも解釈できる。
語弊のある言い方かもしれないけど、彼の歌ってることって20年前の「僕らの輝き」から変わってないと思う。表現の幅はもの凄く広がっているけれど。
どんな人とも分かり合えるなんて絶対ない。
演じた自分を愛されたって仕方ない。
憂いで終わるんじゃなくて、ニヒルの中にも光を見出すのが彼の哲学だ。
嫌われるかもしれないけど、さらけだしていく。
拒絶されることを恐れず、愛を伝える。
それでうまくいく確率が高いはずがない。だから、人に期待や依存をしない。
おれが彼から受け取ってきたものって、こういう眼差しだと思う。
***
歳を重ねるたびにどんどん斜に構えるようになって、人の言葉をそのまま受け取れなくなってきた。
すぐ裏を勘繰るようになって、浮かれないように、自分が傷つかないように、予防線を張る悪癖がすっかり板についてしまった。
顔の見えないやり取りなら尚更だ。
いつでも背後に真意があるように考えてしまう。
絵文字や記号の有無にやたら敏感になって、一喜一憂する。
現代のコミュニケーションは、つかれる。
腹を割って話せる関係性の構築は、学生の頃よりもずっとずっと難しくなってきている。
自分が発する言葉はどうだろう。
正直、デリカシーが足りないと言われることが多い・・・
どうにも、言わなくていいことを言ってしまうらしいのだ。
そんな自分に愛想を尽かしつつも付き合い続けてくれる人たちのことを、ずっと大切にしたい。
そう思える数人の友人は確かにいて、有難いと思う。
恋人には頻繁に好きと伝えたい方だし、
恋愛感情でなくても好きと思う人には好きと言う。
会いたい人には会いたいと伝える。
自分の中で芽生えた感情は、ちゃんと相手に届けたい。
そうすることが自分に対して素直であると思うし、後悔しないだろうから。
怒りの感情を他人にぶつけることは少ないかな。
人を嫌いになったら、その人に自分の感情のリソースを削がれることが勿体無いと思う。
だからそのときはフェードアウト、サヨナラ。
***
優しい嘘について、考える。
自分自身に誠実であるための在り方は、ずいぶん確立してきたと思う。
じゃあ自分に対する誠実さと、相手に対する誠実さは両立し得るのだろうか。
思うことをそのまま正直に伝えることが、必ずしも相手にとっての誠実ではないことはわかる。
たとえば相手の鼻くそが見えるからって、鼻くそ出てるよとは言わない。
おれだってそれくらいは弁えてる!
じゃあ会いたくない人に「体調が悪い」と嘘をつくことはどうか?
その人が自分に好意を向けていたら?
たぶん、「体調が悪い」じゃなくて、「察せよ」と伝わってしまうのだろう。
どうやら、みなまで言わないのが大人の美学・マナー・人間関係ってやつらしい。
嫌だなあ、と思う。
自分はそういうとき「会えない」とだけいう。
「会えない」の裏にあるのは「会えない」事実それだけなのだ。
そう受け取って欲しい。
というかそれ以前におれは感情がモロに顔や態度に出るタイプだから、取り繕うことに意味がない。
元気なさそうにしてたら元気がないし、明るく見えたらちゃんと明るいのだ。
みんなそうだったらいいのに。
***
言葉を言葉通りに受け取れる人は、強い人だ。
でも世間はそういう強い人たちをバカだという。
名誉なバカじゃないか。そのバカの称号、ぜひ欲しい。
自分に自信がないから、より悪い状況が想像し得るから、言葉の裏を探るのだ。
「まぁ分かってたけど」となる方が、傷は浅く済む。
でも、言葉を曲解して真意を察しようとする態度は、相手にとっての誠実だとはおれは思わない。
その誠実さを失うよりも、後になって明かされて傷ついた方が、なんか、いい。
「好き」と言ってくれたなら、好きでいてくれてると信じたい。
「体調が悪い」と言うなら、体調が悪いのだと信じたい。
「心配ないよ」と言うなら、無事であることを信じたい。
先にも書いた通り、相手の言葉をそのまま受け取れなくなってしまった。
優しい言葉にこそ、裏があるように思えてしまう。
相手のことを信じられないのは相手に対して不誠実だ。
出来る限り言葉を言葉のまま受け取りたいけど、おれも随分大人になってしまった。
バカでありたい。
それで傷つくことも多いだろう。
でもそんな痛みも享受し続けていきたいと思う。
だって、相手のことを信じられない自分は嫌だから。
結局、自分、自分、自分なのだ。
***
父のがんはまた転移した。
あとどれだけの時間が残されているのか、わからない。
父の病気をきっかけに、支える人としての在り方を深く考えるようになった。
正直、がんの進行に対しておれが出来ることって何一つない。
唯一貢献し得ることがあるとすれば、父からできる限りのストレスを取り払うこと。
それはつまり心配をさせないことで、願わくばおれがハッピーな姿を見せること。
じゃあおれのハッピーってなに?って、自分の人生の主人公としての在り方もまた考えるようになった。
仕事は、ありがたいことにすごく楽しい。
日々新しいことに挑戦していて、自分にしかできないことができていると思う。
趣味も楽しい。
筋肉の調子はよく、ギターはレッスンを受け始めてPSSOSのリフが少し弾けるようになった。
ネトフリのストレンジャーシングスにハマっている。今年の年末もコミコンはあるようだ。
友人はいる。
一番の親友はブログ「生きる」にも書いた大阪にいる中学の同級生だが、
高校の1番の友達は女の子で、先日結婚して、来週はその夫妻と3人でご飯にいく。
なんか、従姉妹のときもそうだったけど、結婚式の主役に後日会うのって、有名人に会うみたいで緊張しちゃうな。
その子とは高校時代からお互いのあらゆる悩みをシェアしてきていて、おれのダサいところも死ぬほど承知してくれてる人だから肩肘張らずに話せるのだ。
勉強するのも楽しい。
教育に携わるものとして、偏差値や学歴というヤツらの気味悪さを批判する本をいくつか読んでいて、これもまた自分の世界が広がっていて楽しい。
それを現場に還元できるのも、いい循環だ。
あとはやっぱり、結婚はしたいと思う。
父を喜ばせたいという思いもあるが、それはきっかけに過ぎなくて、ちゃんと自分の願望として、共に生きていくパートナーは欲しいと思ってることに気がついた。
一昨年に恋愛できつい思いをしたから去年は全くそのモードにならなかったけど、
今年はちょっと動いてみている。
けど、うまくはいかないものだ。
父の今の状況を踏まえると、おれのメンタルはこの先もブレ続けるだろう。
このことを明かさず平常運転を続けるのは自分には不可能で(隠したとて隠しきれない)、
相手にはどうしてもこのことは受け容れてもらいたい。
けど相手からしたら、わざわざそんな荷物を持ってる人と付き合っていく義理はないわけで
どうも、うまくいかない。
まぁそれ以前におれのデリカシーのなさが露呈して見限られたのかもしれないが。
相手への誠実がなにかは、まだわからない。
でも最低限、自分への誠実さは守りながら関係を築きたいと思う。
それで合わなかったら、相性の不一致が早めに分かってよかったねという話それだけだ。
それだけなのに、わりとまあ、凹んではいる。
結構、一度恋愛感情を持ったら大好きになるまでが早いのだ…
そうなるともう盲目で、好かれる自分を探すようになって、ああ、よくない。
***
ひさしぶりにブログを書いた。
先日、ある人にこのブログのある記事が好きで何度も読み返してると言われて涙が出るほど嬉しかった。
だってそれはめっちゃおれのダサいところを書いたものだったから、それを好きと言ってくれるのは、本当に嬉しい。
おれたちは言葉に救われ、言葉に傷つき、言葉から逃れられず生きていく。
言葉はすべてを掬い取ることができない。
言語化することで多様な解釈の余地を生み、思いがけないことが伝わってしまったりする。
不完全なものだと半ば諦めは必要だ。
そして言葉は、自己をつくる。
だからなるべく誠実に、他意のない言葉を使っていきたい。
それで人が離れてしまったとしても、自分に嘘はつきたくない。
まだまだ、世渡り上手にはなれない。
そのまま恋愛の曲ともとれるし、長澤知之のアーティストとしての決意を描いているようにも解釈できる。
語弊のある言い方かもしれないけど、彼の歌ってることって20年前の「僕らの輝き」から変わってないと思う。表現の幅はもの凄く広がっているけれど。
どんな人とも分かり合えるなんて絶対ない。
演じた自分を愛されたって仕方ない。
憂いで終わるんじゃなくて、ニヒルの中にも光を見出すのが彼の哲学だ。
嫌われるかもしれないけど、さらけだしていく。
拒絶されることを恐れず、愛を伝える。
それでうまくいく確率が高いはずがない。だから、人に期待や依存をしない。
おれが彼から受け取ってきたものって、こういう眼差しだと思う。
***
歳を重ねるたびにどんどん斜に構えるようになって、人の言葉をそのまま受け取れなくなってきた。
すぐ裏を勘繰るようになって、浮かれないように、自分が傷つかないように、予防線を張る悪癖がすっかり板についてしまった。
顔の見えないやり取りなら尚更だ。
いつでも背後に真意があるように考えてしまう。
絵文字や記号の有無にやたら敏感になって、一喜一憂する。
現代のコミュニケーションは、つかれる。
腹を割って話せる関係性の構築は、学生の頃よりもずっとずっと難しくなってきている。
自分が発する言葉はどうだろう。
正直、デリカシーが足りないと言われることが多い・・・
どうにも、言わなくていいことを言ってしまうらしいのだ。
そんな自分に愛想を尽かしつつも付き合い続けてくれる人たちのことを、ずっと大切にしたい。
そう思える数人の友人は確かにいて、有難いと思う。
恋人には頻繁に好きと伝えたい方だし、
恋愛感情でなくても好きと思う人には好きと言う。
会いたい人には会いたいと伝える。
自分の中で芽生えた感情は、ちゃんと相手に届けたい。
そうすることが自分に対して素直であると思うし、後悔しないだろうから。
怒りの感情を他人にぶつけることは少ないかな。
人を嫌いになったら、その人に自分の感情のリソースを削がれることが勿体無いと思う。
だからそのときはフェードアウト、サヨナラ。
***
優しい嘘について、考える。
自分自身に誠実であるための在り方は、ずいぶん確立してきたと思う。
じゃあ自分に対する誠実さと、相手に対する誠実さは両立し得るのだろうか。
思うことをそのまま正直に伝えることが、必ずしも相手にとっての誠実ではないことはわかる。
たとえば相手の鼻くそが見えるからって、鼻くそ出てるよとは言わない。
おれだってそれくらいは弁えてる!
じゃあ会いたくない人に「体調が悪い」と嘘をつくことはどうか?
その人が自分に好意を向けていたら?
たぶん、「体調が悪い」じゃなくて、「察せよ」と伝わってしまうのだろう。
どうやら、みなまで言わないのが大人の美学・マナー・人間関係ってやつらしい。
嫌だなあ、と思う。
自分はそういうとき「会えない」とだけいう。
「会えない」の裏にあるのは「会えない」事実それだけなのだ。
そう受け取って欲しい。
というかそれ以前におれは感情がモロに顔や態度に出るタイプだから、取り繕うことに意味がない。
元気なさそうにしてたら元気がないし、明るく見えたらちゃんと明るいのだ。
みんなそうだったらいいのに。
***
言葉を言葉通りに受け取れる人は、強い人だ。
でも世間はそういう強い人たちをバカだという。
名誉なバカじゃないか。そのバカの称号、ぜひ欲しい。
自分に自信がないから、より悪い状況が想像し得るから、言葉の裏を探るのだ。
「まぁ分かってたけど」となる方が、傷は浅く済む。
でも、言葉を曲解して真意を察しようとする態度は、相手にとっての誠実だとはおれは思わない。
その誠実さを失うよりも、後になって明かされて傷ついた方が、なんか、いい。
「好き」と言ってくれたなら、好きでいてくれてると信じたい。
「体調が悪い」と言うなら、体調が悪いのだと信じたい。
「心配ないよ」と言うなら、無事であることを信じたい。
先にも書いた通り、相手の言葉をそのまま受け取れなくなってしまった。
優しい言葉にこそ、裏があるように思えてしまう。
相手のことを信じられないのは相手に対して不誠実だ。
出来る限り言葉を言葉のまま受け取りたいけど、おれも随分大人になってしまった。
バカでありたい。
それで傷つくことも多いだろう。
でもそんな痛みも享受し続けていきたいと思う。
だって、相手のことを信じられない自分は嫌だから。
結局、自分、自分、自分なのだ。
***
父のがんはまた転移した。
あとどれだけの時間が残されているのか、わからない。
父の病気をきっかけに、支える人としての在り方を深く考えるようになった。
正直、がんの進行に対しておれが出来ることって何一つない。
唯一貢献し得ることがあるとすれば、父からできる限りのストレスを取り払うこと。
それはつまり心配をさせないことで、願わくばおれがハッピーな姿を見せること。
じゃあおれのハッピーってなに?って、自分の人生の主人公としての在り方もまた考えるようになった。
仕事は、ありがたいことにすごく楽しい。
日々新しいことに挑戦していて、自分にしかできないことができていると思う。
趣味も楽しい。
筋肉の調子はよく、ギターはレッスンを受け始めてPSSOSのリフが少し弾けるようになった。
ネトフリのストレンジャーシングスにハマっている。今年の年末もコミコンはあるようだ。
友人はいる。
一番の親友はブログ「生きる」にも書いた大阪にいる中学の同級生だが、
高校の1番の友達は女の子で、先日結婚して、来週はその夫妻と3人でご飯にいく。
なんか、従姉妹のときもそうだったけど、結婚式の主役に後日会うのって、有名人に会うみたいで緊張しちゃうな。
その子とは高校時代からお互いのあらゆる悩みをシェアしてきていて、おれのダサいところも死ぬほど承知してくれてる人だから肩肘張らずに話せるのだ。
勉強するのも楽しい。
教育に携わるものとして、偏差値や学歴というヤツらの気味悪さを批判する本をいくつか読んでいて、これもまた自分の世界が広がっていて楽しい。
それを現場に還元できるのも、いい循環だ。
あとはやっぱり、結婚はしたいと思う。
父を喜ばせたいという思いもあるが、それはきっかけに過ぎなくて、ちゃんと自分の願望として、共に生きていくパートナーは欲しいと思ってることに気がついた。
一昨年に恋愛できつい思いをしたから去年は全くそのモードにならなかったけど、
今年はちょっと動いてみている。
けど、うまくはいかないものだ。
父の今の状況を踏まえると、おれのメンタルはこの先もブレ続けるだろう。
このことを明かさず平常運転を続けるのは自分には不可能で(隠したとて隠しきれない)、
相手にはどうしてもこのことは受け容れてもらいたい。
けど相手からしたら、わざわざそんな荷物を持ってる人と付き合っていく義理はないわけで
どうも、うまくいかない。
まぁそれ以前におれのデリカシーのなさが露呈して見限られたのかもしれないが。
相手への誠実がなにかは、まだわからない。
でも最低限、自分への誠実さは守りながら関係を築きたいと思う。
それで合わなかったら、相性の不一致が早めに分かってよかったねという話それだけだ。
それだけなのに、わりとまあ、凹んではいる。
結構、一度恋愛感情を持ったら大好きになるまでが早いのだ…
そうなるともう盲目で、好かれる自分を探すようになって、ああ、よくない。
***
ひさしぶりにブログを書いた。
先日、ある人にこのブログのある記事が好きで何度も読み返してると言われて涙が出るほど嬉しかった。
だってそれはめっちゃおれのダサいところを書いたものだったから、それを好きと言ってくれるのは、本当に嬉しい。
おれたちは言葉に救われ、言葉に傷つき、言葉から逃れられず生きていく。
言葉はすべてを掬い取ることができない。
言語化することで多様な解釈の余地を生み、思いがけないことが伝わってしまったりする。
不完全なものだと半ば諦めは必要だ。
そして言葉は、自己をつくる。
だからなるべく誠実に、他意のない言葉を使っていきたい。
それで人が離れてしまったとしても、自分に嘘はつきたくない。
まだまだ、世渡り上手にはなれない。
